わが融通無碍の旅路

どこから来てどこに行くのでしょうか・・・

2020年4月4日 コロナだからって…

 

新型コロナウィルスに対応した生活ったって、自粛自粛じゃ息が詰まります。

誰にも迷惑が掛からないように息抜きをしようと、久しぶりに我が街交野を歩いて廻ってきました。空は青いですが、もう午後4時前です。

 

家の近所の京阪バス停留所「妙見口」周辺は「妙見河原の桜」の中に位置しておりまして、毎年綺麗に花を咲かせてくれます。

f:id:shinchanfareast:20200628115625j:plain

f:id:shinchanfareast:20200628115654j:plain

f:id:shinchanfareast:20200628115743j:plain

この花の名前は知ってます。シバザクラです。鮮やかですね。

このあと藤が尾から天野川左岸の遊歩道をブラブラと歩いて逢合橋まで行き、折り返し東高野街道を南下して行きました。

 

すると程なく住宅街の中に忽然と現れました。「本尊掛松」。

f:id:shinchanfareast:20200628122113j:plain

ぐるりを囲まれて門まであって像には近付けません。

f:id:shinchanfareast:20200628130845j:plain

桜が満開でとても綺麗でした。シート敷いてお弁当を食べたくなりました。近所のお子達がスケボーで遊んでました。

立派な由緒書き。

f:id:shinchanfareast:20200628124822j:plain

色々由緒が書かれてあるようですが光の加減で良く読めませんでした…

ですので、枚方市ホームページより引用→「本尊掛松 :元亨元年( 1321) 、摂津深江( 大阪市)にいた法明上人が石清水八幡神霊夢をうけ、男山へ向う途中、この地で八幡宮の使者に出会い、十一尊天得如来の画像を授かりました。上人は有難さのあまり、これを道ばたにあった松にかけ、その前で称名念仏を唱えて踊り出しました。これが融通念仏宗念仏踊りの 起源とされ、「本尊掛松」の名はこの画像を 掛けたことに由来します。」

 

さらに少し行くと、東高野街道から分岐するところに道標が。

画像に写っていない面には「安政二乙卯 三月建立 世話人 光明講中」「願主 私部村 淺右衛門」と 、安政2年(1855年)に私部村の淺右衛門さんが建立したと刻まれています(枚方市ホームページからお知恵拝借)。安政2年と言えば、あの遠山の金さんが亡くなった年だそうです。

f:id:shinchanfareast:20200628120145j:plain

東高野街道と山根街道の分岐の道標。右:宇治、左:京八幡 とあります。

その右への山根街道へ通づる方の道を10mほどのところにこれが。

f:id:shinchanfareast:20200628131552j:plain

「閲武駐蹕記念碑 参謀総長子爵長谷川好道書」。裏側には「大正三年特別大演習之際駐蹕之牌 陸軍中将大迫尚道謹書」とあります。 

 

Googleマップでは「迎え地蔵」と記されているお地蔵さん。

f:id:shinchanfareast:20200628145758j:plain

星田の墓地入り口のお地蔵様

 

星田北5丁目のマンションの前、高田と私市を結ぶ道と東高野街道との交差点からの夕陽。もうあと1年もしないうちに同じ光景は見られなくなります。向こうに見える第二京阪の高架の手前も向こう側も星田駅北地区の開発によって大きく様相が変わります。

 

f:id:shinchanfareast:20200628155731j:plain

あぁ、夕焼けがキレイだなぁ。

時刻は午後6時過ぎです。2時間半ほどの我が街ブラブラ紀行でした。